石の町には、昼頃雨が降ると言う直前予報が出ていた。
吹き抜けには無愛想な二本の鉄塔がそびえたつ。
あたりを囲む単色の硬い床や壁は古代西洋を思い起こす。
だから座布団よりも椅子が似合うのかもしれない。
そういう場で椅子or座布団の選択で、優先的に椅子を選ぶのは、
身体の声に正直なのだろうと思う。
一方、椅子は路上を劇場化させる側面を持つ。
まるで劇場のように椅子を敷き詰めればある種暴力だ。
椅子は固定化され、微動だにしない。
演者と共有する空気が滞る可能性もある。
しかし、快適や便利さを望む気持ちにあらがうのは困難を伴う。
でも、路上を選んだのはこの日ばかりは快適や便利さでは得られない自由を望んだからではなかったか?
そんな葛藤の中、演劇祭の模索は続く。
それでも、石の町に居た人々は自由を満喫しているように見えた。
予報通り降った雨もふさわしい気がした。
土砂降りで人も寄り付けないという悪戯はしなかった。
吹き抜けから太陽が注いだ時間はあったのだろうか?
空を見上げた記憶も思い出せなかったが、終わりに差し掛かる頃、人工の灯りがともされた時、
ここはやはり入念に管理された場所なのだと気が付いた。
令和7年5月31日の朝。
祭りの場へと続く道。
浜松の人は気にも留めないかもしれない。
でも浜松まつりの手ぬぐいは、町名を記すデザイン含め浜松の文化であることは間違いない。
11:00~
■オープニング【はじまるよ】
TeamMCは分担制で、11時~ジュニア→13時~はぴ→15時~ふへ→17時~テラちゃんで進行する。
ジュニア君の開催宣言および注意事項告知から始まる。
ふへさん数日前に思いつき作成した段ボールに描いたピクトグラムが活躍。
11:10~
■加藤解放区【Punk(E)】
おしゃれなピクニック「おしゃピク」が流行っているそうだ。
インスタ映えする見た目にも比重を置く。
だからと言って、不味くていいわけない。
美味しくて見栄えがいい物が最高!
パン喰う乙女たちの語らいは無駄話ほど楽しい。
そもそも無駄な話って何だろう?
したいからするのであって、必要か無駄かなんて区別しておしゃべりなんかしていない。
無駄とは他人の評価だが、そんなことは知らん。
11:40~
■キング人民共和国【万有引力の法則】
見たいものを見るためには自分たちでつくるのが手っ取り早い。
そうして路上に参加し、砂山人、砂山人再び、田紳有楽羅漢に続き4年目は誰が来るかと思えば、物理学。
「万有引力の法則」。
ニュートンがりんごが落ちるのを見て、地球の中心から引き寄せられていると仮定し、
リンゴと地球の異なる物質同士が引き寄せ合っている万有引力の法則のアイディアを思いつく。
引き寄せ合っていると言わずして何と言うのだ。
神か天使かそれとも堕天使か?
すずやさんが、新しい衣装を獲得した。こやつは誰だ? 次回へ続く。
12:00~
■太郎座衛門 にしむラボ【路上即興演劇 “太郎左衛門1人で出来るもん”】
路上で雨が障害と感じるのなら傘を差せばいい。
傘を差さずに味方にするのなら、演劇をやればいい。
ただし、着替えは必要だ。
その後、真新しい服にチェンジしていて安心した。
一人芝居の即興はひとりのみで演じるのではないことを今日学んだ。
他者(観客)との協働作業なのだ。
姫路駅前でこなした数はあなどれない。
やっぱり、「好きな動物は?」の問いへの「ヘビ」の回答がヒットだったと思う。
奈良からエントリーしたカムパネルラは残念ながら体調不良で欠場となった。
それもまた路上演劇祭。
休みもまた、ひとつのリズムを生み出す。
お昼時で、一斉におにぎりやパンを頬張りだした。
ランチタイムベイビイ。
12:55~
■ヒメぱせり劇場【詩集売りの異国人】
エントリー時のタイトルが、創作過程でそぐわなくなったようだ。
新しいタイトルをつけるとしたら何がよかっただろうか。
机と椅子は通う日本語学校の教室の再現の証。
教室が屋外に開放される。
ただしその外は彼らの母国ではない。
昭和の歌謡曲「カスバの女」は、ここは地の果て アルジェリヤと唄う。
ここはどこだろう? 浜松の “路上”。
正確に言えば、“路上”と仮定した浜松駅北口地下広場と言う名の希望の地。
13:15~
■ムラキング/enim 【前略最初の桃太郎】
演者でもある「他人の持寄」の居場所に人格(動物・鳥類あり)が宿る6つの帽子を持ち寄った。
彼の言葉の海はどこまで広がるのだ。
言葉が枯れるように海の水が枯れたとしたら、生き物は果てるだろう。
桃太郎の登場人物が勢ぞろいのクライマックス、帽子が落ちてお供の雉が乗り遅れた。
それは、元となるお伽噺桃太郎にはないハプニング。
本来は鬼の眼を突く雉の活躍も鬼退治が成就する必須事項だったはずだ。
そんなことは意に介さず、ムラキングの桃太郎は、軌道を変えながらも無事着地する。
13:30~
■グループホームすてっぷ【内気な集団が人前に出たらこうなりました。本当のカオス見せてあげます。】
始まったと思ったら、お目当てのパンクバンドの演奏のラストソングが終わる所だった。
観客は予定通りのセットリストでは満足できない。
当然「アンコール」の嵐。
とは言ってもアンコール曲の演奏も想定通り。
あらかじめ練習し、セットリストに組み込まれている。
アバンギャルドを想定通り演じるのも人の知恵。
どっこい計算して生きているのだ。
身体や精神をチューニングしながら。
13:45~
■浜松キャラバン隊【知的障害・発達障害「こんな行動あるある」】
今回の会場、バスターミナルの地下が「浜松駅北口地下広場」と呼ぶのは、今回初めて知った。
地元浜松市民の認知率は何%なのだろうか? 相当低いだろう。
隊長くみこさんによると、バスが集まるここは数々のエピソードがある、思い出深い場所なのだそうだ。
思い出をノスタルジックに語ると、懐かしいセピア色の美しいものとなる。
嫌な記憶を脳は忘れてあいまいにするが、ひとつひとつの記憶は今へ続く道しるべ。
その記憶をていねいに掘り起こして、伝える。
伝えたいから、ここでやる。
14:05~
■演劇企画くすのき【上原隆作品 流しの音読】
選んだのはリストの一番上にある作品だった。
登場人物に生前の母を重ね感涙したと言う感想を聞いた。
屋外でかき集められ開かれた小さな音読会、“流しの音読”。
小さな声でどれだけ出来るか試す先に灯る小さなともしび。
聞くことが出来た人たちは共犯者。秘密をそっと持ち帰る。
もう1本と言うところでやめるのもありかもしれない。
アンコールは次の楽しみとしたい。
14:40~
■佐々木知里【大きいひとりごと】
ひとりごとが本当に大きい人がいる。
街を歩いていて、出くわすことがある。
行きかう人たちはそれを聞こえないようにふるまったりする。
でも、言いたいことがあるから、ひとりごとを発するのだ。
つぶやきシローはひとりごとをつぶやいて芸にした。
Xも買収前はツイッター。ツイートつぶやき、ささやき、ひとりごとは自己表現となる。
佐々木さんはどうして、ひとりごとで演劇することを思いついたのだろうか?
何度か事前に現場で試したと言う。きっと毎度変容していたことだろう。
15:00~
■The合唱団【だあれ】
階上からの「だあれ」を合図に、対象者の捜索に追われるはめになる。
誰って誰? どこ? あなた? もしかして私?
そんな存在の不安と頼りなさ。
いったいここにいるのは本当の自分?
誰もそんな目的でこの場に居合わせたわけじゃないのに。
遭遇してしまったのなら付き合うか。
諦めから安心、期待と勇気に代わる。
「だあれ」と口に出す。ほらまわりも声を上げていた。
15:15~
■劇団イン・ノート【イン・ノート路上短編集!】
短編集は決してバラバラでなく、つながっていた。
散り散りのノートが1本のひもで綴じられるように。
捕らわれの身の男は、自ら不自由さをまとっていた。
若さの、東京の、ざっくりTシャツの、演劇の……。
そして、はままつ、にも果敢に挑んでいた。
浜松駅北口地下広場の石の上で。
解き放たれた身体は自由で、訓練された声は広場に心地よく響いた。
15:50~
■エンジョイ・おでんの具【ドゥンドゥンバ・パーティ】
起源とするアフリカの大地とは様子が違ったかもしれない。
石で囲まれた広場の広さはどれだけ広くても地平線は見えない。
窮屈になり吹き抜けの空をそっと見上げてみるが曇り空。
どんな場も社会となる。
外国人もいて障碍のある方もいて年齢性別もさまざまだ。
昨年の有楽街と異なると思ったのは、波動が及ぶのは太鼓の周辺だけではなかったことである。
波動の力は、広場のあちらこちらに及んでいた。
単独でグループで。手拍子とステップと笑顔と。
それは音が及ぼす社会をつくる力のように見えた。
16:25~
■荒山昌子【a・la・ALA・Live~浜松バージョン~】
「樺美智子」「ホットロード」「湘南爆走族」
樺美智子さんは、1960年安保闘争の最中、デモに参加して22歳にして死亡した学生運動の象徴的存在。
つかこうへいの「飛龍伝」の主人公のモデルである他、当時の様々な表現にも影響を与えている。
ホットロード、湘南爆走族はどちらも1980年代の漫画。
少女漫画誌と少年漫画誌の違いはあるが、バイクに乗る暴走族の青春を描いているのは同じ。
どのテーマも、何かにあらがいながら生きていた主人公たちにエールを送っている。
未来から。ただし、それは過去の自分やまわりの人たちへの暖かいまなざしが込められている。
青春時代はそこで終わりではない。
生きて、傷つき、変わらずもがき、あらがい続けている。
17:00~
■木の実プロデュース【UWABAMI】
木の実プロデュースの企画者は、自身の劇団も主宰しているが、路上演劇祭は、参加者を募っての上演で挑むことが多い。
練習に時間をかけての劇場公演と比べ、異なる環境から集まったメンバーにより実験的な作品を試すのに相性がいいのかもしれない。
UWABAMIとはサンテグジュペリの「星の王子さま」の冒頭で王子が語る一番最初に描いた絵のエピソードから来ている、
象を飲み込んでいるうわばみ、大蛇の絵を外側から描いて「怖いでしょ?」と大人に聞くが、大人は帽子なんて怖くないと答える。
UWABAMIも3段階の構造の変化の中、異なる出演者たちにより展開していき、観ている大人たちを見事煙に巻く。
ラスト客席から立ち上がる場面は、以前参加した地元劇団による寺山修司作「星の王子さま」を思い出した。
僕も同じような役をやったのだ。
17:25~
■笠谷ん【『マッチ売りの少女』『織姫と彦星』】
チラシの白塗りのビジュアルと演目名のお伽噺を事前に深く結ぶ付けようとはしなかった。
普通に昔話を演じるのかもしれないとも思っていた。
パッヘルベルの「カノン」が流れる中「マッチ売りの少女」はかなりの不条理感に包まれ始まった。
以前浜松に住み、劇団で芝居をやっていたそうだ。
今は北陸・石川県で一人芝居をやっていると言う。
大道芸のイベントなどにも出場しているようだ。
そうだ。街角がまともだった時代の見世物芝居。
存在が演技が、場をひっくり返し、忘れていた価値観、ワクワク感を呼び起こす。
17:50~
■里見のぞみ【わたりゆく, 何処へ。】
撮影者が天才的に閃いた神からの視点ショット。
地下にある会場からバスターミナルのある階上へ駆けあがり、シャッターパシャリ。
おかげでのぞみさんの顔がわからない写真を選んでしまった。
しかし、神さまや鳥類が見える人物と紙の融合した幾何学模様はこの角度からしか見えない。
そうだ。ナスカの地上絵。
ロマンチストたちは、宇宙人が描いたとか交信するためとか、唱える。
バスタ(バスターミナルの略)の地上絵は誰と交信しようとしているのか。
神さま? いや、紙さま。
18:20~
■テラ・ダンス・ムジカ【二人】
出ていたので客観的にとらえることが出来ないが、
今回は今までにも増して、全体として何が行われたのかよくわからない。
と言うのも、僕は道男の役を語ると言う自分のやるべきことを一生懸命やったというだけなのだ。
主人公であるトモとサヨの姉妹の語りと舞、二人の弦楽器による音。
それらは僕が与り知らない所で進行している。それがいいと思った。
今回の演目の出発点、鴨江アートセンターでの音楽会「二人」で使用したオブジェも紙風船に見立て、使う事が出来た。
俯瞰して見せてくれる写真は本当に有難い。
個人的には家族関係に根差したギリシア悲劇のような話が書けたと思っている。
漂泊型出演
■ひらのあきひろ【Bow!】
タイトルの「Bow!」とはパフォーマンスにおいて、どんな意味なのだろう。
動画チョイ撮のため、観客たちの脇にいたが、「画伯」と良く遭遇した。
言葉は交わさなかったが、キャンパスは眺めたりした。
時間が経つにつれ、白い隙間は埋まっていく。
やさしく繊細なタッチで。
淡く、主張しすぎない。
Bowとは、挨拶のお辞儀や会釈のこと。
作品たちへの敬意なのだろうか。
たゆたい型出演
■杉浦麻友美【たゆたう】
静岡新聞に浜松市出身の県立美術館館長である木下直之さんのコラムで、
浜松市役所に期間限定で展示されている「エヴァ」初号機像を題材に、自治体のシンボルについて書いていた。
その中で、浜松駅北口地下広場の高さ20メートルの鉄の柱「伸びゆく浜松」について、「愛されてきたとはとても思えない」と皮肉っている。
ここでは、スケールを人間ではなく、バスロータリーに合わせたからだと述べている。
でも、写真を見て、この日、2025年5月31日、鉄の柱を愛でる人を初めて見たような気がした。
「伸びゆく浜松」は1984年4月5日に完成している。当時は鉄の剝き出しだったが、今は錆止めの塗装が施されている。
ぼんやり型出演
■つじむらゆうじ【ボンヤリ・ボーっとする】
白き巡礼者は、決して現世利益だとか解脱だとか修行だとかの目的でここにいるのではない。
ただただ、ボンヤリ・ボーっとしているだけなのだ。
余裕ある佇まいから、修行者に見えたからと言って、問答をしかけてはいけない。
お悩み相談などもってのほか。
強いてい言えば、真似をすればいいのだ。
「ボー」という棒をわざわざ作らなくてもいい。
あ、今ボンヤリしてたな、ボーッとしてたなと気が付いた時、もったいない時間だったなどと、後悔しなければいいのだ。
滞在型出演
■他人の持寄【路上〇〇研究会】
24H最大料金制の駐車場に停めるべく、朝、会場から少し離れた所に車で向かう際、
アウトドアコンテナを引っ張る、他人の持寄の高林さんを見かけた。
今回の路上演劇祭は、タイムテーブルを埋めるタイプの出演者だけでなく、場所を埋める演目がそろったのが特徴。
過去は祭りのテキ屋、今はマルシェが地域活性化の役割も担って流行りだが、
度合いはそれぞれ違うが、基本は商売。
対して路上演劇祭は、金にはならない。金以外の対価とは何だ?
高林さんが住人やすこさんとご近所同士のように言葉を交わしていたのが印象に残っている。
気まぐれ型出演
■浜松和合新町管弦楽団【交響詩「浜松の地下街」】
イレギュラーの演奏会の筈が、お客さんがついていた。
レギュラーのタイムテーブルを追っていたので、離れた場所から聴こえてくる演奏は音の断片のみ。
しかしながら気付く。
意図的にまとまったように聴こえるつくられた音楽も、断片の重なりなのだ。
聴く側が自由に組み合わせて構わないのだ。
自分なりの交響詩「浜松の地下街」を。
才能があるかどうかは別にして。
18:50~
■エンディング【おわるよ】
いつからか、反省はするけど後悔はしないと言い張っているが、
ひとつどうしても言い足らなかったことがある。
やはりちょっと余裕がなかったのかもしれない、と反省。
なぜお客さんに問いかけなかったのか?
「晩御飯、何食べますか?」でもいいと思ったが、やはりこれだろう。
「今日、ここで、出会い直しましたか?」
うん、一番知りたかったから。
俺、出会い直したかなあ?
みなさんはどうですか?
文章:寺田景一
写真:えのさん
写真:ぽらんさん